今回は、昭和初期から半世紀以上にわたって活躍した小説家の丹羽文雄さんについて調べさせていただきました。
生涯に書いた作品は原稿用紙13万枚余といわれており、人気作家として幅広いジャンルの作品を執筆しました。
また、同人誌「文学者」を主宰して後進に発表の場を提供したり、日本文藝家協会の理事長や、会長を長くつとめており、文壇の大御所的存在でもありました。
そんな、丹羽文雄さんの妻や娘と息子を調査し、学歴と経歴もリサーチしてきたので、紹介させていただきます。
丹羽文雄のwikiプロフィール
11月5日は #いい男の日 なんだそうですね。#芥川賞 関係でいい男といえば、屈指のモテ男として知られた吉行淳之介、「文壇の長谷川一夫」の異名をとった丹羽文雄、そしてなんといっても芥川龍之介、といったところでしょうか。 pic.twitter.com/FxxZdJYbAk
— 日本文学振興会 (@shinko_kai) November 5, 2019
名前:丹羽文雄
よみ:にわ ふみお
生年月日:1904年11月22日
年齢:享年100歳
出身地:三重県 四日市市
血液型:現在調査中
身長:現在調査中
体重:現在調査中
丹羽文雄の家族構成
「ちなみに丹羽文雄は『文壇の長谷川一夫』といわれたほどの美男だった」
(川本三郎『小説家たちの休日 昭和文壇実録』) pic.twitter.com/6fDvFVmDdd— のむみち (@conomumichi) October 29, 2019
妻と娘・息子の4人家族でした。
丹羽文雄の妻はどんな人?
妻は久松郁子さんという女性で、丹羽文雄さんと仏前結婚式を挙げます。
結婚してから丹羽文雄さんは実家へ帰って家業を継ごうと考えており、郁子さんは大阪で水商売をしていました。
しかし、結局家業を継がず、夫婦で上京して作家生活に入ることになりました。
ところがある日、妻の手帖を見ると、そこに47人の男の名前が書かれており、それは妻が関係した男性の名前でした。
4番目が空白になっており、それは丹羽さんのことでした。
その後、郁子さんと別れ、他の女性と一緒になり、子供もできました。
再婚した妻は1998年9月に死去しており、丹羽文雄さんより先に逝ってしまいました。
丹羽文雄の娘と息子
この投稿をInstagramで見る
娘の名前は本田桂子さんで、丹羽文雄さんの介護が原因のストレスからアル中になるも、『父・丹羽文雄介護の日々』執筆をきっかけに回復することができました。
その後、介護と講演・著述活動を続けていましたが、2001年春に虚血性心疾患により65歳で亡くなっています。
息子は米国留学をして、ドイツ系アメリカ人女性と結婚しており、フジテレビ社員として活躍されていました。
丹羽文雄の孫
丹羽文雄さんの孫である丹羽 多聞アンドリウさんは、ドラマプロデューサーで、「終戦50年特別企画 こちら捕虜放送局」や「理想の上司」のプロデュースをしていました。
丹羽多聞アンドリウという名前は本名で、名字が「丹羽」、名前が「多聞アンドリウ」となっており、多聞は仏教用語で、寺で育った祖父の丹羽文雄さんが名付けました。
特技は早口で、スタッフが聞き取れずに困っている隙に、話をまとめてしまうそうです。
丹羽文雄の学歴
出身高校:三重県立四日市高等学校
出身大学:早稲田大学文学部国文学科
大学偏差値:77~78
丹羽文雄の経歴
三重県にある、浄土真宗専修寺高田派の崇顕寺で住職を務める父・教開の長男として生まれました。
早稲田大学を卒業後、実家の寺で僧職に就くも、同人誌に発表した小説「朗かなある最初」や、「鮎」が評価され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住みながら、執筆活動を続けていました。
戦後は東京の銀座などを舞台とした風俗小説が人気を博しており、人気作家となりました。
その後、50歳を過ぎてから、恋愛を中心とした長い小説を書くようになり、『小説作法』はベストセラーとなりました。
まとめ
いかがだったでしょうか。
今回は「丹羽文雄の家族(妻や娘と息子)を調査!学歴と経歴もチェック!」をご紹介させて頂きました。
最後までご覧いただきありがとうございました。